ライ麦畑で捕まるのは誰か

※ネタバレが含まれるので、映画を見ていない方は見ないほうがいいかもしれません。

映画『天気の子』を観てきました。既に二回観ているのですが、一回目は特に何も準備せずにみて、二回目はサリンジャーの『The Catcher in the Rye(村上春樹訳)』を読了してから観にいきました。二回観に行ったことから明らかなように、僕はこの映画がすごく好きです。映像は言うまでもなく美しいですし、何しろ映画に込められたメッセージにとても感動して、二回とも泣いてしまいました。

引用元: (C)2019「天気の子」製作委員会

先に言っておくと、この映画に込められたメッセージは「社会(=ライ麦畑)からいくら拒絶され、いかなる代償を払うことになっても、あなたはあなたの追い求めたいものを純粋に追い続けなさい。あなたは大丈夫だから。」だと考えています。来年に大学生から社会人になる自分にとって、このメッセージは非常に刺さるものでした。

純粋なものが失われて、複雑性に溢れる社会

この世界は複雑なもので溢れており、人間は気づいた時には、その複雑さを内面的に抱えることになります。

例えば、目の前にとても楽しそうな何かがあった時、子どもは真っ先に飛びつきますが。大人は「周りの目」とか「リスク」を真っ先に気にします。自分たちがもともと持っていた「純粋なるもの」は社会に出て、世の中を知るにつれて失われていき、やがては自分自身が社会の複雑性(=カオス)に飲み込まれてしまいます。

そのような人間が作り出す社会では、いわゆる「例外」は即刻取り除かれます。純粋さを失った人々がマジョリティーになるので、例外には「純粋さ」も含まれることになります。

例えば、大学で考えると、少しでも周りと違ったことをすると、(一部の)周囲の友達から叩かれます。「単純に楽しいからこれをやってるんだよね!」とか言うと、すごく白けた顔をされたりします。

純粋なものが人々の心から失われて、複雑性に溢れる社会。僕たちの住んでいる場所はそんなところです。

「大人」と「子ども」という二項対立の構図

『天気の子』の中では、顕著に上記社会が映し出されていたと思います。特に複雑の象徴としての「大人」、純粋の象徴としての「子ども」という二項対立は映画で何回も観ることができました。

「大人」の代表格は高井刑事です。彼は終始「大人」であり続けました。

特に印象的なシーンは、帆高をパトカーで連行しているシーンで、帆高の必死の主張に対して、「ガキのくせに」と常に冷めた態度で接していました。複雑性とは、本作では、純粋さを否定する存在でありますが、純粋な気持ちを妨げるものが複雑性だと考えると、社会の目や損得勘定を気にしてしまうことも複雑性の構成要素になるかと思います。後述しますが、須賀はそれらを乗り越えて、最終的に純粋側に立ちました。

「子ども」の代表格は帆高です。彼は陽奈を失ってから、どんなものを犠牲にしてでも、陽奈さんを取り戻すために行動しました。

特徴的なシーンをいくつか紹介したいのですが、例えば代々木の廃ビルに行くために線路を駆け抜けるシーンはとても素晴らしかったです。周りから「ダサい」と言われながら、そんなことには目をくれず線路を走り抜ける帆高には、周りに何を言われようと自分の成したいことを絶対に成し遂げると言う確固たる信念がありました。今の時代にそのような信念を持って生きている人間がいったい何人いるでしょうか?また帆高が銃を使用したことは、そのような信念の強さを表すメタファーだったのではないかと考えています。

須賀さんは最初は「大人」側にいたのですが、最終的に「子ども」側に立ちました。

考えるに、彼も昔、帆高みたいに純粋に何かを追い求めた時期があったんだと思います。劇中で指輪がかなりクローズアップされていることから、それは亡くなってしまった妻に関してのことでしょう。純粋に愛を求めていても、彼の場合は救われなかった。長い年月をかけて、そのことをしょうがないと自分の中で処理していたのかもしれません。帆高にも「もう大人になれよ」という言葉をかけて、彼の純粋性を否定したシーンもありました。しかし、最終的に、帆高の信念に、かつての自分を思い出し、ラストのシーンで彼が大人の代表格である高井刑事にタックルをかまします。そうして帆高は陽奈さんの元へ行くことができたのでした。

ライ麦畑のホールデンと帆高は同じものを求めている

ここで『The Catcher in the Rye(村上春樹訳)』の話を少し、本著の主人公であるホールデンと帆高はとても似ていて、彼らはどちらとも複雑性にあふれた社会の中に、純粋なものを求めていました。

ライ麦ホールデンの場合は、歌を歌う子どもたちの中にそれを見出し、彼らがライ麦畑(=社会の象徴だと考える)から落ちそうになったら、自分が落ちないように支えてあげたいと発言していました。これは複雑化される社会の中に純粋なるものを残したいと言う彼の意志だったと考えます。帆高の場合は、それを陽奈さんに見出しました(島で光を追い続けて、その先に陽奈さんがいたんだ、的な発言してましたよね)。そして追い求めていたものが社会から消えた(ライ麦畑から落ちた)後に、彼自身がそれを取り戻す過程で純粋の象徴となるわけです。

帆高は「自分で」決断して掴み取った

『The Catcher in the Rye(村上春樹訳)』と違うところは、ホールデンは思うだけであって、実際の行動はほとんどないものの、帆高は自分で行動をしました。ライ麦畑という社会から取り除かれてしまって陽奈さんを実際に捕まえて、実世界に取り戻しました。

陽奈さんを助け出す時に、「世界なんか狂っててもいい、君がいい」みたいな発言をしていましたが、そこがこの映画のもっとも素晴らしいシーンだと思います。彼は「自分で」決断して掴み取ったんです。その行為をいかに社会が認めようとせずとも、どんな代償を払うことになろうとも、彼はそれを自分で選んだんです。

ライ麦畑で捕まるのは誰か

映画前半は陽奈さんが帆高をライ麦畑で捕まえたんだと思います。帆高は家出少年で、ホールデンと同じような心境だとすると、この世の中の全てを嫌っていて、社会に居場所がなかった。けれども、陽奈さんから生きる希望をもらい、無事に社会に居場所を見つけました。

面白いことに、映画の後半では帆高が陽奈さんをライ麦畑で捕まえたと考えます。社会から犠牲になるべく取り除かれた陽奈さんを帆高個人の意思で取り戻したんです。その際の決断には賛否が分かれると思いますが、僕はこのラストがとても好きです。

この映画が伝えたいメッセージはこうじゃないかと思います。「社会(=ライ麦畑)からいくら拒絶され、いかなる代償を払うことになっても、あなたはあなたの追い求めたいものを純粋に追い続けなさい。あなたは大丈夫だから(ライ麦畑にも居場所はあるから)。」